えびすの三線ライフ

三線を弾き、唄い、学び、暮らす。還暦を迎えてなお新しい景色を求めながら、八重山民謡の稽古と日々の暮らしを重ねています。小さな積み重ねの中にある喜びや気づきを、ゆっくり綴っていきます。

8月13日が来ると、毎年思い出す出来事がある。

2004年8月13日、沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学に、米海兵隊の大型輸送ヘリCH-53Dが墜落、炎上した事故である。

そして私にとって、この事故はもう一つの意味を持っている。

私が三線を始める、大きなきっかけになった出来事だからだ。

2004年8月13日、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落

2004年8月13日午後、普天間飛行場を離陸した米海兵隊のCH-53D大型輸送ヘリが、沖縄国際大学の本館に接触して墜落、炎上した。

乗員3人が負傷したものの、大学関係者や周辺住民に死者が出なかった。

しかし、沖縄国際大学のすぐそばには普天間飛行場があり、その周辺には住宅が密集している。墜落地点が少し違っていれば、多くの人を巻き込む大惨事になっていた可能性がある。

そして、この事故が突きつけた問題は、単なる航空機事故にとどまらなかった。

事故直後、米軍は墜落現場を規制した。

そこは米軍基地の中ではない。

日本国内にある沖縄国際大学の敷地である。

にもかかわらず、事故現場の管理や捜査をめぐって日本側が十分に関与できない状況が生じた。

日米地位協定とは何なのか。

日本の主権とは何なのか。

そして、なぜ住宅や学校が密集する市街地の真ん中に、このような巨大な米軍基地が存在しているのか。

事故は、沖縄が抱えている問題を目に見える形で突きつけた。

その1週間後、家族旅行で沖縄へ

実は事故が起きた約1週間後、私は家族旅行で沖縄を訪れる予定になっていた。

事故のニュースを見ながら沖縄へ向かい、現地では沖縄国際大学の事故現場にも足を運んだ。

テレビの画面を通して見るのと、自分の目で現場を見るのとでは、まったく違った。

ほんの少し前、ここに米軍ヘリが墜落した。

しかも基地の中ではなく、大学の構内に。

すぐそばには普天間飛行場があり、その周囲には普通に住宅が広がっている。

沖縄では、基地と人々の暮らしがこれほど近い場所にあるのか。

ニュースとして知っていた「沖縄の基地問題」が、その時初めて、自分の目の前にある現実として迫ってきた。

家族で楽しむために訪れた沖縄だったが、事故現場に立った経験は、私の中に強く残った。

「沖縄をもっと知りたい」と思った

あの経験をきっかけに、沖縄という土地そのものに強く関心を持つようになった。

基地問題だけではない。

なぜ沖縄にこれほど多くの米軍基地が集中しているのか。

沖縄はどのような歴史を歩んできたのか。

そこにはどんな文化があり、人々はどんな暮らしを営んできたのか。

もっと沖縄を知りたいと思った。

そして、沖縄の文化に触れる一つの入口として興味を持ったのが、三線だった。

その年、私は初めて三線を手にした。

それから22年。それでも基地問題は

2004年から22年が過ぎた。

あの事故を目の当たりにした時、まさか20年以上たっても普天間飛行場の問題が解決していないとは思わなかった。

普天間飛行場の返還は実現せず、その移設先として名護市辺野古では新たな基地建設が進められている。

さらに、この間、宮古島や石垣島などでは自衛隊の配備が進んだ。

もちろん、それについては、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、南西地域の防衛力を強化し、抑止力を高める必要があるという政府の考え方がある。

安全保障を考えなくていいと言うつもりはない。

それでも、22年前から沖縄を見てきた者として、どうしても感じてしまうことがある。

結局、また沖縄なのか。

沖縄の基地負担を軽減すると言いながら、一方では辺野古に新しい基地を造る。

さらに宮古、石垣、与那国と、先島の島々にも自衛隊の施設や部隊が置かれていく。

米軍基地と自衛隊基地は、その成り立ちも法的な位置づけも同じではない。それを一緒くたに論じるべきではないだろう。

しかし、沖縄や先島の島々に暮らす人たちの側から見れば、安全保障に伴う負担やリスクが南西地域へ集中していくという問題は残る。

沖縄の負担を軽くするはずだったのではなかったのか。

あの事故から22年たって、いったい何が変わったのだろう。

そう考えると、無力感を覚える。

そして、憤りも感じる。

美しい島々が「防衛の最前線」と呼ばれること

特に、八重山古典民謡を学ぶようになってから、その思いは以前より強くなった。

石垣島へ行けば、美しい海があり、島々があり、人々の暮らしがある。

そして今、私が一生懸命覚えようとしている八重山の歌がある。

歌を学べば、その土地が単なる地図上の一点ではなくなる。

歌の中に浜があり、村があり、働く人がいて、恋する人がいて、祈る人がいる。

だからこそ、宮古や石垣、与那国といった島々が「南西地域」「防衛の最前線」という言葉で語られるたび、複雑な気持ちになる。

安全保障政策を考える側には、その論理がある。

しかし、その場所には昔から人が暮らしている。

文化があり、歌があり、日常がある。

そのことを忘れてはいけないと思う。

三線が、人とのつながりをつくってくれた

一方で、この22年間、三線は私に多くのものを与えてくれた。

三線を通じて、たくさんの人と出会った。

いくつかの三線サークルに関わり、一緒に練習し、人前で演奏し、時には初めて三線を手にする人に弾き方を伝えるようにもなった。

年齢も仕事も立場も違う人たちが、三線を持って集まれば、一緒に歌い、一緒に音を出すことができる。

三線がなければ、おそらく出会うことのなかった人もたくさんいる。

一本の三線が、人と人とをつないでくれた。

自分にできることは、小さいけれど

基地問題について考えると、正直、自分の無力さを感じる。

22年前に事故現場に立った一人の人間が、沖縄の基地問題をどうにかできるわけではない。

辺野古の工事を止めることもできない。

大きな安全保障政策を変えることもできない。

それでも、自分にできることが何もないとは思いたくない。

三線を弾く。

沖縄の歌を歌う。

その歌が生まれた土地のことを知る。

沖縄の歴史や文化について知ったことを、人に伝える。

三線を弾いてみたいという人がいれば、その楽しさを伝える。

そして、サークルで一緒に歌い、演奏する。

一つひとつは、本当に小さなことだ。

けれど、22年前、自分が沖縄に興味を持ち、三線という入口から沖縄の文化へ入っていったように、今度は自分が誰かにとっての入口をつくることはできる。

沖縄を単なる観光地としてではなく、そこに暮らす人々の歴史や文化、そして今も続く問題を含めて知ってもらう。

それも、自分なりの沖縄との関わり方なのだと思っている。

あの夏から22年

2004年8月13日、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。

その約1週間後、私は家族と沖縄を訪れ、事故現場に立った。

そこで見たものをきっかけに沖縄をもっと知りたいと思い、三線を手にした。

それから22年。

三線を弾き、沖縄の歌を知り、人と出会った。

いくつかの三線サークルに関わり、仲間と一緒に歌い、演奏し、今では八重山の歌を本格的に学んでいる。

そして、自分が楽しむだけではなく、三線を通じて沖縄の文化を少しでも広げていきたいと思うようになった。

一方で、22年たっても基地をめぐる問題は終わっていない。

むしろ、辺野古の基地建設や南西諸島への自衛隊配備を目にすると、沖縄が背負う安全保障上の負担は、本当に軽くなっているのだろうかと思う。

無力感もある。

憤りもある。

それでも、沖縄を知ろうとすることをやめない。

沖縄の歌を歌うことをやめない。

そして、その文化を誰かに伝えていく。

それくらいしかできないのかもしれない。

でも、それなら、それを続けようと思う。

8月13日は、沖縄国際大学で起きた事故を忘れないための日。

そして私にとっては、沖縄を知ろうとする長い旅と、三線を通じて人とつながり、その文化を伝えていく旅が始まった原点を思い返す日でもある。

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