三線を始めてから長い間、私にとって三線は「人に聴いてもらうもの」だった。
自分の好きな曲を弾く。
みんなが知っている曲を弾く。
聴いてくれる人が笑顔になる。
一緒に歌ってくれる。
そんな瞬間が嬉しくて練習してきた。
沖縄ポップス、誰もが知っている民謡、宴席で盛り上がる曲。人前で演奏する機会が増え、三線を通じて仲間も広がった。
「人を喜ばせる三線」
それは間違いなく、私にとって大切な三線の楽しみ方だった。
ところが、この3年ほどは少し違う世界に足を踏み入れている。
八重山古典民謡。
正直なところ、多くの人に聴いてもらっても、その難しさはなかなか伝わらない。
音数が多いわけではない。
派手な演奏技術を見せるものでもない。
知らない人が聴けば、どの曲も同じように聴こえるかもしれない。
上手いのか、まだまだなのか、それすらわからない世界。
以前の自分なら、ここまで夢中になっただろうかと思う。
でも今、その世界がたまらなく楽しい。
誰かに拍手してもらうためではない。
誰かに褒めてもらうためでもない。
昨日できなかった節回しが、少し身体に入ってくる。
三線の音と唄が、ほんの少し寄り添う瞬間がある。
頭で考えながら弾いていた曲が、少しずつ自分の中から出てくるようになる。
その小さな変化が嬉しい。
曲を覚えるのではなく、曲が身体に染み込んでいく感覚。
三線と唄が別々のものではなく、一つになっていく感覚。
「絃声一体」
まだまだ遠い境地だけれど、その方向へ少しずつ歩いていること自体が楽しい。
今の師匠に師事する前、師匠がブログで書かれていた言葉が引っかかった。
「八重山民謡は楽しい」
当時も、なんとなく意味はわかっていたつもりだった。
でも今は、その言葉の深さを以前とは違うところで感じている。
できるようになるから楽しいのではない。
できない部分が見えるから楽しい。
簡単に完成しないからこそ、追い求める楽しさがある。
山の頂上に着くことだけが目的ではなく、登っている途中に見える景色そのものを楽しむような感覚なのかもしれない。
これから自分がどこまで行けるのかはわからない。
優秀賞、最優秀賞、その先にどんな世界があるのかも、今はまだ想像できない。
でも、この道を歩き続けた先に、今の自分にはまだ見えていない景色がある気がしている。
人を喜ばせる三線から始まり、今は自分自身と向き合う三線へ。
どちらが上でも下でもない。
三線には、人生の時期によって違う楽しみ方がある。
20年前には見えなかった景色が、今見え始めている。
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