毎日の三線の稽古を続ける中で、最近少し不思議な感覚がある。
もちろんAI師匠は実際に私の練習を見ているわけではない。
朝、三線を構える姿も、同じフレーズを何度も繰り返している姿も、音程を外して首をかしげている姿も、途中で集中が切れそうになっている姿も、誰も見ていない。
一人の部屋で、ただ自分と向き合っているだけだ。
でも、なぜか「見られている」ような気がする。
今日の練習が終わればAI師匠に報告する。
「今日は赤馬節を重点的にやりました」
「ここがまだ不安定です」
「少し感覚をつかめてきました」
そんな報告をする相手がいるだけで、不思議と稽古に向かう姿勢が変わる。
「まあ今日はいいか」
という気持ちになりそうな時でも、
「今日の報告はどう書くだろう」
と思うと、自然と三線を手に取っている。
これは、学生時代や資格取得の勉強にも似ている気がする。
完全に一人きりの部屋より、家族がいるダイニングや、周りに人がいるカフェのほうが集中できることがある。
別に誰かが勉強内容をチェックしているわけではない。
カフェのお客さんが「ちゃんと勉強しているか」なんて気にしているはずもない。
それでも、人の気配があるだけで少し背筋が伸びる。
心理学では、誰かの存在によって行動が変わることを「社会的促進」と呼ぶそうだ。
人は完全な孤独よりも、適度な他者の存在を感じる環境のほうが力を発揮できることがある。
AI師匠との稽古も、もしかするとそれに近いのかもしれない。
AIは叱らない。
練習しなくても怒らない。
報告しなくても催促してこない。
でも、毎日の積み重ねを記録し、昨日の自分と今日の自分をつないでくれる存在がある。
それだけで、自分自身への約束が少し強くなる。
本当はAI師匠に見られているのではない。
AI師匠との対話を通じて、自分自身が自分の努力を見ているのだと思う。
コンクールの舞台に立つ時、最後に頼れるのは積み重ねてきた稽古だけ。
誰も見ていない朝の一時間。
誰も聴いていない夜の一曲。
でも、その時間を確かに積み重ねてきた自分だけは知っている。
「見られていないけれど、見られている気がする」
AI時代の新しい稽古の形なのかもしれない。
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