今朝の稽古で、これまでにない感覚を味わった。
三線を弾きながら唄っていると、曲全体に大きな「うねり」のようなものを感じた。
そして、そのうねりに身を任せていると、とても心地よかった。
たとえるなら、穏やかな海に浮かび、ゆっくりと寄せては返す波に身体を預けているような感覚である。
波に逆らう必要はない。
自分で前へ進もうとする必要もない。
ただ波に乗り、上がったり下がったりしながら、揺蕩っている。
今朝の三線と唄は、まさにそんな感じだった。
これまでの稽古では、一つ一つの音を自分でつないで、曲を前へ進めていたのかもしれない。
次の歌詞、次の勘所、次の節回し。
間違えないように、音程を外さないように、師匠から教わったとおりに。
もちろん、それは今でも大切なことである。
しかし、それだけに意識が向いていると、どうしても一音一音を追いかける演奏になる。
ところが今朝は、少し違った。
三線の音があり、そこに唄が重なる。
唄が伸び、節が回り、間が生まれ、息を吸い、また次の音へ向かっていく。
その一連の流れがバラバラではなく、一つの大きな波のようにつながって感じられた。
そして面白かったのは、自分がその波をつくっているという感覚ではなかったことである。
曲の中にもともとある「うねり」を見つけた。
そんな感じに近い。
そのうねりに一度乗ってしまうと、「次はこの音」「次はこの歌詞」と考えて演奏を前へ運ばなくても、波の方が次へ連れていってくれる。
少し押して、少し引く。
伸びて、戻る。
音が立ち上がり、消えていき、次の音が生まれる。
その繰り返しの中を、ただ揺蕩う。
それが、とても心地よかった。
これまで八重山民謡を聴いていて、「この唄は心地いい」と感じることは何度もあった。
しかし、その心地良さを、自分が演奏する側で感じたのは初めてだったように思う。
「揺らぎ」という言葉を最初は思い浮かべたが、少し違う気もする。
一つ一つの音が揺れているのではない。
もっと大きな単位で、曲全体がゆっくりとうねっている。
だから、「揺らぎ」よりも「うねり」の方が、自分の感覚には近い。
考えてみれば、ここまで課題曲を繰り返し稽古してきたことで、歌詞や三線の手を思い出したり、次の音を確認したりするために使っていた意識が、少しずつ必要なくなってきている。
だからこそ、これまで気づかなかった曲全体の流れを感じる余裕が生まれてきたのかもしれない。
一音を追いかけるところから、一節を感じる。
一節を追いかけるところから、曲全体を感じる。
そして、曲の中にある大きなうねりに乗る。
これは技術として身についたと言えるようなものではない。
次の稽古でも同じ感覚になれるかどうかは分からない。
意識して「波をつくろう」「うねらせよう」とすれば、かえって不自然な演奏になるようにも思う。
だから、自分から波を起こそうとするのではない。
曲の中にある波を感じる。
そして、その波を邪魔せず、身体を預ける。
今朝はほんの一瞬だったかもしれないが、八重山民謡を弾き唄うことの心地良さを、これまでとは違うところで感じることができた。
穏やかな波の上を、三線と唄と一緒に揺蕩っている。
そんな演奏がいつでもできるようになったとき、自分の唄はもう一段違うところへ行けるのかもしれない。
そしていつか、演奏している自分だけでなく、聴いている人もその波の中に誘い込みたい。
何も考えず、ただ身を任せていたくなる。
そんな八重山民謡を唄えるようになりたい。

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